ライ麦畑で逃げ出して

カルチャー食べ歩きマガジン

#1 限りなく諦観に近い憎悪

 例えば、ベッドに入って自分の親指と親指が繋がった時、例えば、ドライヤーと扇風機の風が自分の体を通過して自分の体温になる時、この自意識はどこからやってくるのかと考えることがある。そしてその源泉に辿り着くことが出来れば、例えば金の斧と銀の斧の選択肢を与えた誰かのような、自分にとって決定的な誰かが目の前に現れ、金の善意と銀の悪徳、そして本当に落とした張りぼての自意識を分別してくれるのではないか、と考えることがある。キャンプに行ったのも、その源泉を探す1つの過程(それは月を目指すことでも万葉集の原本を手に入れることでもあるのだが)であっただけなのかもしれない。

 ここ最近は、自分の気に食わないものに無作為的に牙を剥くよりも、何故かここにいる自分が、自分の好物だけを身体中に纏い、偶然存在した1畳程度の足場の上で、尊大に構えて世界を上から覗き、その実見ていたのは自分の足場と同程度の面積の世界であったのだから、自分の世界的価値に失望し、またそれと同時に失望出来た自分に安堵するような1日を繰り返し通り過ぎていた。ならいっそ、1度世界から離脱し、その1畳の楽園を隅から点検してやろうじゃないか、その結果自分の足場が失くなって落下したとして、目指した「彼の世界」に着地出来るならそれ以上はないじゃないか、と唐突に生まれた積極性で、なんとか重い腰、というか重い身体、心体を持ち上げ、動き出した。

 

 ともかく、キャンプ場に向かった。山の中への侵入につれ、木や草や稲、野良犬や野良猫、野良老人などありとあらゆる情報が、脳のしわ11つの溝が埋まってしまうほどに流れ込んできた。これは、例えば部屋でTwitterYouTubeを眺め流入してくる情報とは異なり、脳内に集積していた自我を心まで押し下げ、情報で埋まったはずの脳だが、同時に何も考えないことを可能にしていた。

 キャンプ場では、運営者である2家族が古民家の改修とBBQを両立して行っていた。挨拶と設営を終え小川で涼んでいると、目にゴーグルをつけた少年が「今日は来てくれてありがとうございます」と手に持ったピーマンを自分に渡し笑った。奥では母親らしき人がこちらにお辞儀していた。今見えているものがこの世界の全てならどれだけ救われるだろう、と瞬間考えた。目の前に現れた現実を拒否し続けここに辿り着いたが、今見ているこれは本当に現実であろうか。

 

 自意識との対決に読書は不可欠である。小川沿いの石に腰掛け読んだ本は「限りなく透明に近いブルー」だった。既に2度読み終え内容もある程度頭に入っている本書をあえてこのキャンプに持ってきた自分が何を考えていたのかは覚えていない。当時の自意識がそうさせ、その自意識はとうに自分を通り過ぎていた。蝉の声と川の流れだけが聞こえるあまりにも静かな場所で、ドラッグが、暴力が、セックスが喚いていた。向き合わなければならない自分からの逃避として行われるそれが、全くの両極にあるはずのこの場所の自分と妙に共鳴している気がした。捻れた自意識を少しでも解こうとここに来たはずであったが、出来ることなら自分のこの自意識も方向感覚も没収して欲しいとどこかで願っていたのかもしれない。

 気付いたら日も暮れ、運営者も帰宅し、山の上で1人になっていた。プレオープン中であるキャンプ場は外灯が1つもなく、ランタンでも焚き火でも、自分の意思で点ける明かりが唯一の生きているものだった。暗闇とは自分が持つ意識の集合体であり、自意識が肥大化すればするほどその場が恐ろしくなっていった。それならと、自分を出来る限り空白に近づけただ焚き火を眺めていると、つまりはこの空白が自意識の源泉であり、この状態の自分が清廉潔白な自我だった。そこに残っていた自分は、その自分に対してほとんど諦観に近い憎悪を抱いていた。

 このように朝を迎え、自分に朝食を与え、砂漠を渡りきれず力尽きた老父のような顔で帰り支度を済ませた。9時頃運営者が再びやってきて、「若いから心配だったんですよ。大丈夫でした?」と温かい善意を投げてきた。自分にとってその温かい球は、自分が持つ自意識の冷たさとの対比でよく見えず、すぐに打ち返すことが出来なかった。ただ、これが世界なら良いと思い、これが世界だった。